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福岡簡易裁判所 昭和28年(ろ)933号 判決

被告人 古川一二雄

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実の要旨は、被告人は西日本鉄道株式会社踏切警手として同会社福岡――大牟田線雑餉隈第一号踏切に勤務中、昭和二八年五月四日午後七時三〇分過、折柄降雨中右踏切上り線左側軌道上において宮崎茂勝(当時三二年)運転に係る乗用自動車一台が故障のため停車したのに気付いたが同線は電車の往来頻繁にしていつ上り電車が進行して来るやもはかり難く且つ同踏切は軌道曲線上にあるため見透しが利かないのであるから、かかる場合踏切警手としては直ちに軌道上を上り電車に向い前進した上合図燈により電車運転者に対し危険を通知し停車をし得るよう機敏な措置をとり事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにかかわらず、被告人はこれを怠り慢然右自動車の後部を押せば同車は踏切を通過しうるものと軽信し、これが作業中警手詰所の警鈴により初めて上り電車の近接に気付き周章狼狽して詰所に戻り合図燈を携え三〇米位前進して危険合図をしたが、時既に遅く大山弥数男の運転する同線上り福岡行五〇二型三輛連結第一二六号普通列車左前部を右自動車に衝突せしめ、よつて前記宮崎に対し頭部挫創腰部打撲傷等により加療二週間を要する傷害を負わせたものであるというにある。

よつて審究するに、被告人が前記日時場所において西鉄踏切警手として勤務中(軌道はほぼ南北に走る)前記宮崎茂勝運転に係る自動車が東から西に第一号踏切を横断し終らんとしたときに故障のため上り線に車体の後部六五糎を残し停車したこと、その後間もなく大山弥数男の運転する前記上り普通列車左前部が右自動車に衝突し、よつて宮崎は前記の如き傷害を蒙つた事実は、被告人の当公廷における供述、証人宮崎茂勝の当公廷における供述、大山弥数男の証人尋問調書、医師平岡佳郎作成の診断書等により認定することができる。

そこで被告人の行動を検討するに、被告人の検察官並びに司法警察員に対する供述調書及び当公廷における供述によると、被告人は前記踏切の障碍車を認めるやその通行不能を確めるため車体の後部を二、三回力をこめて押しているうちに警手詰所の警鈴が鳴り上り電車の近接を告げたので急ぎ詰所に戻り合図燈を携え小走りに同所より約三〇米軌道上を南進し合図燈を上下に数回振つて停止信号を送つた旨供述し前記宮崎の供述、証人持田米子の尋問調書、証人山崎キミの供述を併せ考えると、被告人が自動車の後押をした後に信号燈により合図をしていた事実を窺い得られるけれども、右宮崎、持田の供述中被告人が合図をしていた地点は自動車の左後方或は周囲であつたと思う旨の供述部分は、確かな記憶に基づく信頼に値するものとは認められないし他に前記被告人の供述を排し、これと異なる地点方法で被告人が合図した事実を認めるに足る確証はない。証人大山弥数男の公判廷及び司法警察員並びに検察官に対する供述によれば、同人は被告人が信号燈により合図したことを認めたことはないというのであるから、右供述は反証とするに足りないこと勿論である。してみると被告人の本件事故発生当時にとつた行動は被告人の前記供述のとおりであると認める外はない。

ところで本件の如く踏切軌道上において自動車が通行不能となつた場合にとるべき踏切警手の義務は如何。まず列車が接近している時は直ちに列車に向い全力で疾走し停止信号をなすべきは勿論であるが、列車がまだ接近していない時は一応車の通行不能を確め(簡単に除去できれば除去する措置を講じ)た上で列車が合図燈を認め自動車と衝突することなく充分に停車しうるような距離まで前進して停止信号をなすべき注意義務を有することは当然である。しかして被告人は第一号踏切に装置されている接近ベルが鳴始めて停止の合図をとるべく行動したのであるから、右のような行動をとることによつて列車を停止することができる情況にあつたか否かを更に検討する必要がある。

証人佐藤哲夫の証言(第一、二回)及び当裁判所の検証調書(第三回)によると、本件第一号踏切警手詰所内には接近ベルが装置され、上り電車が同所より南方六四〇米の地点(いわゆる列車接近通知点)に接近した時から自動的にベルが鳴り始める仕掛けになつており、右踏切に列車が到達するまでに要する時間は普通列車で四四秒乃至五五秒であること(検証の際における実験の結果による)を認めることができる。これから計算すると列車が右通知点から踏切に到達するまでの速度は秒速一四・六米乃至一一・六米(時速でほぼ五二粁乃至四一粁)となるところ、本件電車の右地点通過時における速度が何程であつたかを認めるに足る的確な証拠はない本件においては、本件電車も右程度の速度で接近したものであると推認する外はない。もつとも本件踏切の北方六・二米のところには雑餉隈切符発売所がありこれより以北に同駅ホームが続いていることが第一回検証調書により明かであるから、接近してくる普通列車は踏切に近づくに従い速度をゆるめるものと認めねばならない。しかして鑑定人大串侃一作成の鑑定書によると本件電車の雨天における非常制動距離は時速四〇粁で八六・五米、四五粁で一一一・五米、五〇粁で一四一・四米であり、又鑑定人生井浩の鑑定書によると、本件線路は西方にゆるいカーブをなしているため進行中の上り電車運転台から被告人が合図したと述べる地点の合図燈を認めうる最大距離(いわゆる視認距離)は一六五・四米、平均距離は一三三・五米(右鑑定は本件事故発生時と似かよつた条件下になされた実験に基づくものである)であることを認めることができる。そして当裁判所の第三回検証における実験の結果によると(右は昼間晴天のもとになされた)被告人が自動車の後部から警鈴が鳴り始めると同時に行動を開始し三十米南進して合図をするに要した時間は一四・八秒であつたから、本件事故当日の如く夜間雨天の場合においては大体二〇秒を要するであろうと認めて充分である。そこでかりに本件電車が時速五〇粁(秒速一四米)で接近通知点を通過しているとしても被告人が踏切から三〇米南進して合図し始めた時には、なお右電車と踏切との距離は三六〇米を隔てている計算となるから、前記視認距離の制約がない場合即ち昼間で直線の場合においては、優に踏切前において列車を停止させることができるけれども、前記のとおり被告人の信号地点から近接する電車までの視認距離は平均一三三・五米であるから、列車は更に二二六・五米踏切に近接しなければ被告人の合図燈を視認できないわけである。従つて衝突を防止すべき万全の措置としては右の点を考慮し被告人は更に前進すべきであり又その余裕もなかつたとはいえない。しかしながら被告人が前記合図点において(それ以上南進することなく)信号をした場合において直ちに運転者大山が停止信号を確認し(右生井の鑑定は視認距離確定のため合図燈に注意を集中して実験した結果であるから、実際の運転者が合図燈の異常に気づき停止信号を確認するには更に時間を要するものと思われるのは勿論であるが、)非常制動措置を講じたとすれば、踏切の南方約二二米の地点において停車しうる計算となる。しかし右運転手が停止信号を認め非常制動措置を講ずるに要する実際の時間は右より少し遅れるだろうことを考慮しなければならぬし、又反対に右踏切に列車が接近するにつれて速度を減ずべきことは既に説明したとおりであるから、右速度に比例して非常制動距離も短縮され、それだけ列車は早く停車しうることも考慮しなければならない。従つてかれこれ併せ考えると被告人が合図を始めた地点において列車運転手が運転手として通常必要な注意義務をもつて列車を運転していた場合に被告人の停止信号を認め非常制動措置を講じたとすれば、果して自動車との衝突を避け得たかどうかは極めて微妙な問題ではあるが、衝突を避け得なかつたとは断定できない。本件大山運転手が運転手としての義務を尽していたという前提のもとにおいて、被告人が更に前進して合図をしていればそれだけ衝突の危険は減少し、又その余裕がなかつたとはいえないことは既に触れたところであるから、被告人のとつた措置をもつて踏切警手として必要な十全の注意義務を尽したものとまではいいえないのは勿論であるが、本件の如く自動車が渡り終らんとして突然停止してしまつた場合に被告人が一応車の後押しをし、接近ベルを聞いて直ちに三〇米前進して合図をした行為は、本件事故発生当時の時刻(夜間)気象状況(雨天)、被告人の年齢、服装(長靴)等諸般の状況のもとにおいてはそれ以上の機敏な行動を要求することはいささか酷に失するものというべく、被告人としては一応法律の要求する踏切警手としての注意義務は尽したものと認めるの外はない。

よつて本件公訴事実は犯罪の証明がないものとして、被告人に対し刑事訴訟法第三三六条に従い無罪を言渡すべきものとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 高石博良)

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